織田幸銅器

銅像語り Talks

日本の銅像 歴史

日本初の西洋式銅像

近代的な銅像の文化は、
明治維新後の
西洋文化流入とともに
日本へ到来

銅像(ブロンズ像)は、
古来より世界各地で作られていました。
ブロンズ像の起源は、
現在のイラク(チグリス・ユーフラテス川周辺)で起こった、
初期のメソポタミア文明のシュメール文明によって
発明したものとされています。
紀元前三千年頃のイラン高原は銅や錫の産地であり、
そこで採取した材料をもとに銅像が鋳造されていきました。
日本へは中国大陸から伝わったとされており、
飛鳥・白鳳時代に青銅像に金メッキを施した
金銅仏が多く作られたのが始まりです。
奈良の東大寺に建立されいる大仏も銅製であり、
当時は、人物を元にした銅像が建てられることはありませんでした。
そして日本初の西洋式銅像は、金沢の兼六園に建てられた
明治紀念之標・日本武尊の銅像(一八八0年)であり、
実存が確認されている人物像としては
明治二十六年に靖國神社に建立された
東京最古の西洋式銅像として大村益次郎像となります。
他には、日本初の女性の銅像として、
明治三十四年に浅草寺に建立された
瓜生岩子像となります。

兼六園日本武尊像

1880
日本武尊像

『古事記』『日本書紀』の伝説で活躍する、景行天皇の皇子で、わが国の古代伝説の英雄。
『古事記』では倭建命(ヤマトタケルノミコト)。
兄は大碓皇子「おほうすのみこ」。

靖國神社大村益次郎像

1893
大村益次郎像

幕末維新期の長州藩の政治家、医師、西洋学者、兵学者。
文政七年、周防の鋳銭司村字大村(山口市)の医師村田孝益の子として生まれる。
長州征伐、戊辰戦争で活躍し、新政府成立の中核を担った軍師。

浅草寺瓜生岩子像

1901
瓜生岩子像

「菩薩の化身」「社会福祉の母」「日本のナイチンゲール」と言われた女性。
戊辰戦争では、敵味方の区別なく負傷者の救護を摺る。
明治前期には、貧民の救済や貧民児童の教育、授産指導、堕胎の防止などの広範囲な社会福祉運動の先駆けとして、生涯を捧げた。

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